価値観・歴史観

 国家・国民が、どのような「価値観」を持つか? どのような「歴史観」を持つべき?
 これは極めて重要なことである。
 そのためまず戦後日本の「価値観」の変遷から話を進める。

戦後日本、「価値観」の変遷

 敗戦の時、筆者は国民学校(小学校)三年生であった。
 そこで子供ながら、世紀の大逆転劇を見た。

 【価値観のすべてが大逆転】したのである。
 子供たちの「大きくなったら兵隊さんになる夢」が完全に否定されたのである。
 国民は、この敗戦のショックがあまりにも大き過ぎたため、以来70年以上経過しても、まだ【大逆転した価値観】そのままの人が大勢いる。
 【大逆転した価値観】とは、敗戦国である「日本の政府・特に軍が悪」という「占領軍」(進駐軍でない)の宣伝工作およびその占領政策ならびに新聞・ラジオ・教科書等の徹底した検閲制度の下、「国民総洗脳教育」が施された。
 そして「東京裁判」では、敗戦国日本には「戦争犯罪人」が多数存在するのに対し、戦勝国には「戦争犯罪人」が一人も存在しなかった(これが公正な裁判といえるであろうか?)。
 ここで戦敗国だけでなく、戦勝国にも「同じ感性(法律)」で、特にソ連を裁けば如何であろうか。
 絞首刑に値する「戦争犯罪人」が多数出たことであろう。

  「ゲーム理論」は、戦前・戦後の「正義の根源」と言うべき
【鬼畜米英!】(鬼畜ならば、これと戦い倒すことが正義になる)および
【日本の政府・特に軍が悪!】 (上記同様)
  共に「バランス感覚の欠如」「公正な見方の欠如」を最大の理由として、否定せざるを得ない。
  そこで「ゲーム理論」は、「占領軍」指導を根源とする 【敗戦国根性】(国民総洗脳教育)を否定する。 日本が独立国である以上、
 【敗戦国根性】を否定すれば、残るは、
 【独立国精神】しかない。
[注:「精神」「根性」も同じような言葉であるが、「根性」は悪い意味で使われることの方が多く、「精神」は「良い意味でのみ」で使われる。故に「敗戦国精神」などありえない。
 【敗戦国根性】【独立国精神】のいずれでものを考えるかで正義の方向性が正反対】になる。
  独立国において、【敗戦国精神】など所詮消滅する運命にある。ただし「日本政府・特に軍のみが悪」という教育を徹底的な受けた「団塊の世代」およびその指導を受けた人たちの「硬い頭」には、どうしようもない。

 ここで【独立国精神】とは
 【侵略しない・侵略されない】という【精神と対策】を持つことである。
 一方【敗戦国根性】とは【侵略しない】だけしかなく、【侵略されない】という【精神も対策】もなく、否定することである。
 なお【侵略されない対策】は、無限の記述になるので割愛する。

  侵略は しないされない こころ意気
      されない施策 錬れよ国民(くにたみ)

 ゲーム理論研究家・井沢開理は、この日本人の【敗戦国根性】【全治百年の精神的障害】と診断する(少し見立てが甘過ぎたかな?)。

  敗戦の 傷あと深き 悪夢かな
      目覚める時は 百歳(ももとせ)先か

 【敗戦国根性】を捨てて【独立国精神】を持ってこそ、こそ、日本は真の【精神的独立国】と言えるであろう。

 敗戦の 傷あと深き 悪夢かな
     覚めた人あり 覚めぬ人あり
 敗け心 矛盾(ほこたて)なしで 策もなし
     矛ある国に 我は盾なし(これが【敗戦国根性】の平和である)

あなたはどのような「歴史観」を持っていますか?

 この質問に対し、「さて?」と考える人が多く、明確に答えられる人は少ないと思われる。
 そこで「歴史観」を大きく分ければ、「皇国史観」「唯物史観」「敗戦国史観」(占領軍史観、東京裁判史観、自虐史観等があり、戦後の史観すべて含む)があり(以下これを「3大史観」と呼ぶ)、そして新たな「新史観」の必要性が痛感される。

 「皇国史観」は、神話から始まり、皇室および国に尽くした人を中心に歴史を語り、「日本は一番素晴らしい国」であり、「国のために尽くす人を育成する」ための「史観」である。
 「唯物史観」は、「共産党(マルクス)の史観」であって、神(神話)を否定し、歴史は原始共産社会から始まり、以後施政者は大衆から搾取する歴史であり(大衆はそれに反抗する歴史の連続であり)、原始共産社会 → 封建社会 → 資本主義社会 → 社会主義社会→「共産主義社会」が実現するのは、誰も止められない「歴史の必然」であり、それが「人類最終目的」であるという「史観」である。
 「敗戦国史観」は、本来「占領軍」の意向であったが東京裁判(戦争犯罪人は日本人しかいない)で決定づけられた。その後、その思想を受け継いだ日本人による「反日感情」「皇国史観 否定感」の方が強く、
 「日本は一番素晴しい国」でなく「日本は一番悪い国」であると国民に自覚させ、「2度と日本に戦争を起こさせない」のが「平和への道」という「史観」である。

 さてここで「新史観」というべきものは、まだ日本で確立されていない。
 そこで筆者が「ゲーム理論」の立場から、提案するのがこの「独立国史観」である。
 この「独立国史観」が広く国民が知ることになれば、将来日本の「平和と安全」に大きく貢献できるであろう。

 「独立国史観」のポイントは、前にも述べたが「侵略しない・侵略されない」という「精神と対策」を持つ歴史観である。

 なお筆者が中学生の時、歴史教科書は「原始共産社会」から始まっていた。これは明らかに「唯物史観」が主体の教科書と思われる。現代80才以下の大部分の人は、「唯物史観」「敗戦国史観」の色彩の濃い教科書で学んだものと思われる。
 これで良い訳がない。「新史観」の必要性が痛感される。

 なお近代は、「帝国主義時代」とも云われいわれ【国家エゴ】そして「実力」の時代であった。
 「ゲーム理論」は、「日清戦争」「日露戦争」「日米戦争」(太平洋戦争、大東亜戦争)について、両国の「国家エゴ」が激突したものと見て、「どちらが悪]ともキメツケない。 
 対極的に前記「3大史観」では、「一方が悪」が大前提になっている。

 筆者の提案する「侵略しない・侵略されない」は、すべての国に適用できる。
 新しい「日中共同宣言」でも、相互に「侵略しない・侵略されない」と宣言すれば如何であろうか?
 しかるに現在なお日本人は、精神的になお「戦後の心理状態にある」と言える。。
 所詮「敗戦国史観」(敗戦国根性)など独立国においては消滅する運命にあるが、「敗戦国史観」(団塊の世代)最後の抵抗には侮りがたいものがあるが、独立国として「敗戦国根性」および「敗戦国史観」は捨てなければならない。
  
 時の政府は、国民の反対がどうあろうと国家として「やらねばならること」を「やらなければならない秋(とき)」がある。
 例えば、反対の声がいかに大きくとも「自衛隊設立」「日倍安保条約改定(60年安保)」「秘密保護法」等は、国家として「やらねばならない」事項であり、諸外国と比較すれば、当然の行為である。
 それにしても優秀な京都大学日本学術会議の首脳の方々、なぜこんな「愚かな声明文」を出すのだろうか? 
 「敗戦国史観」を持っていれば、当然の声明ともいえる。
 げにも恐ろしきは「史観」である。
 日本人が「何史観を持つか」で、国家国民の運命が定まるであろう。

歴史観 正邪の基準 ここにあり
    史観によりて 正邪逆転